『アイスキャンデーよりも甘いのは』
「わー!ごめんミクリオ!」
ごしごしごしごし。ウリボアに弾かれて吹っ飛んできたスレイを受け止めた筈のミクリオはしかし、予定とは異なり地面に仰向けに倒れていた。
旧レディレイクの近くの草原。目覚めて少し時間が経ったとはいえ、体は数百年動かせていないスレイのリハビリを兼ねたものだった。上位天族となったミクリオと共闘すると効果範囲も威力も増した天響術で簡単に魔物を倒してしまうため、ミクリオに許されたのは回復などのサポートのみ。さすがに魔物の巣に突っ込んだとか数が多いだとかという緊急時はスレイの言いつけを守るつもりは無いが、基本的には彼が戦うのを援護するだけだった。
ミクリオにとっては懐かしい記憶と被るシーンだが、スレイにとっては導師だった頃に比べて少し体力が劣った様に思えているらしい。なんかちょっとタイミングが合わないんだよなあと首を傾げる姿を見ながら、回復をかけるのが役割だったのだが。
「……怪我はないかい」
「それはこっちの台詞!」
見晴しの良い平野。ウリボアと戦っているスレイの動きからして、一騎打ちで負けることがないのは明らかだった。そのせいで若干見守る此方の気も緩んでしまっていた。そろそろおやつ休憩を摂るべきかと太陽の位置を確認していたせいで、最後の足掻きでウリボアに蹴られて吹っ飛ばされたその身体に一瞬反応が遅れてしまった。咄嗟にその背中に腕を伸ばしたのだが、スレイもスレイで受身を取ろうと体を捻った為、見事に此方との正面衝突となった。自分も、受け身を取ろうと振り返ったスレイも中途半端な形でぶつかったせいで衝撃を殺しきれずに倒れたという訳だ。スレイを体の正面で受け止めたものの背中から倒れ込んだミクリオがどうにか後頭部を死守しようと腹筋に力を入れたせいでスレイの顔とぶつかった。たった数秒、触れると言うよりも激突という方が正しい衝突事故。幸いどちらも大きな怪我はなく、ウリボアも森の方へ逃げていった。此方の腹の上に腰を落としたスレイが、こちらの唇を袖でごしごし乱暴に拭う以外に問題は無いが。
「川とかで洗った方がいいかも」
「大袈裟だよ」
ごし。衝突した衝撃よりも擦られているせいで赤くなっていそうな口元をスレイから奪還する為に彼の腕を掴む。心配そうに覗いてくる小川色の瞳と視線があって反射的に逸らしてしまった。幸い口の端を切ったりしていない様なので治癒術は不要そうだ。
「痛いところは?」
「……前歯が若干……」
「それは僕も同じ。他には?」
「ん、へーき!」
「それなら良かった」
自身の体をざっと確認して無傷を伝えてくるスレイに頷いてミクリオも起き上がる。背中と地面が触れていたせいで服についてしまったホコリや土を叩いて払い、髪紐を一度解く。背中ほどまである長い髪は切っても良いのだが、願掛けの願いそのものだった本人が毛先だけに水色が残る銀色の髪を梳いては勿体無いと呟くので結局そのままだ。
「解くの?」
「ああ、ちょっと緩んだから」
解いた髪紐を咥えて手櫛で髪を纏める。その様子を見ているスレイはきょとんとしていて、何だか少し可笑しかった。櫛を使わないので少々歪だがひとつに括り直す。
「……どうかした?」
「いや、なんか解いたところってあんまり見ないから、ちょっと新鮮だなって」
「そう?いっつも宿で……」
見てないか。そう言いかけて、スレイが眠るのを見届けてからミクリオも寝ることが多いことに気が付いて口を閉ざす。朝は大体自分の方が先に目が覚めて身支度を進めることも多いので彼が言うことはあながち間違っていない。本当はあの頃のように同じベッドで寝たいと思っているなんて言ったら、きっとスレイは少し驚いたような顔をして、しかし素直に受け入れてしまうだろう。こちらの言葉の本質が、スレイの中のものと違うことなんて知らないまま。
「スレイ、今日のリハビリはそろそろ終わりにしよう。もうすぐ日も傾くだろうし、今から移動すれば夕飯は街で食べれるよ」
ミクリオが宣言した通り、旧レディレイクの街に到着したのは夕方だった。旧レディレイクはハイランド王国の第一の街ではなくなったものの、あの頃と変わらず沢山の人が住んでいる。穢れはあの頃よりも随分薄く、街中で憑魔に出会うことは殆ど無い。今では複数人存在する導師達が頑張っているお陰と、人間達の信仰心のお陰だ。勿論、当時は人間の事には我関せずという風な素振りを見せがちだった天族達の協力でもある。
「はー暑い!」
「こら、髪乾かさないと風邪引くぞ」
宿のチェックインを済ませた二人は近くの食事処で夕飯を食べた。宿の夕飯も勿論美味しいのだが、スレイが眠っていた間に発展した料理の多さはミクリオとて追えきれないほどで、一つ一つルーツを辿りながら説明するのは難しかった。何の変哲もないある家の調理場で編み出された料理もあれば、料理人が何日も何年もかけて開発した料理もある。好奇心旺盛なスレイの知識欲を満足させるには、宿の夕食では少しバリエーションに欠けていた。
ミクリオと交代で入浴を済ませたスレイがタンクトップとハーフパンツでベッドにダイブする。首に掛けられたタオルは気休めで、毛先から落ちて周りを濡らす水滴からベッドも床も守れていなさそうだった。
「んー」
「……全く。ほら、ドライヤー」
「んー……ミクリオやって」
「はあ……」
目覚めたての頃は立派な文明品だと楽しんでいたドライヤーだったが、今ではすっかり飽きているらしい。差し出したそれを受け取る事もせずに強請られて、ミクリオは溜息をつきながらベッドサイドのコンセント差し口にコードを接続した。暖かい風が流れるのを確認して、ベッドにうつ伏せになったスレイの髪を丁寧に乾かしていく。水分を含んだしっとりした感覚からサラサラした手触りになるまで時間は掛からない。終わったよ。ドライヤーでサラサラになった髪を梳かしながら告げたが、反応は返ってこなかった。普段のスレイならまだ一時間程は起きているだろう時刻。
「スレイ」
「……」
「君がアイスキャンデーが食べたいって言うから作ったんだけど」
「……」
ベッドの上でうつ伏せの男の肩を掴んで軽く揺すっても反応は無く、ミクリオはやれやれとベッドから降りて備え付けの冷蔵庫を開ける。ドライヤーと同様に人間の技術の進歩と呼べる器具のひとつ。開ければ水の天族の加護がなくても冷たい空間だ。宿の備え付けの冷蔵庫の中身は基本空だが、今日の昼にスレイがアイスキャンデーを食べたいと言い出したので風呂上がりのお楽しみだと約束したのだ。夢中になると風呂に入るのを忘れそうになる幼馴染を入浴させるための誘導文句。先程だって楽しみだと笑っていたのに。
スレイが眠りについて、おやつ作りを続けていたのも最初のうちだけだった。薬やグミとは違って日持ちしないそれは、自分だけで食べることになってしまう。訪れた村や街の住人にあげようにも、当時自分達天族を見ることが出来るのはほんの僅かな人間だけで。
冷凍庫に入れていたケースから固まった一本を取り出してミクリオはスレイの眠るベッドに戻る。練乳と牛乳と、フルーツはお好みで数種類。材料も工程も難しくは無いそれ。ベッドの端に腰かけて一口齧ると、冷たさと優しい甘さが口の中いっぱいに広がった。口の中がひんやりして心地よい。冷たくなった唇を撫でようとして手を止めた。
「……っ」
敢えて思い出さない様にしていた親友の唇の感覚。意識してるなんて知られたら、きっと今度こそ誤魔化せない。
「んう……?」
ぎし。ミクリオが身動ぎしたせいでベッドが軋んで、突っ伏して寝ていたスレイが顔を上げて眩しそうにこちらを見る。
「ミクリオ……?」
「スレイ、寝るなら歯を……」
「あっ!おやつ食べてる!」
ほんの僅かにしか開いてなかった目がミクリオの持っているアイスキャンデーを見た途端覚醒する。ぱっちり開かれたスレイの緑色の瞳が一口齧ったミクリオのキャンデーを狙っているのは明白だった。
「狡いぞミクリオ!オレにも一口!」
「君のは冷凍庫に……ってこら!」
言ってる傍からミクリオの持つアイスバーを奪おうとするスレイの肩を片手で抑えて阻止するが、今目の前にあるそれをひとまず齧りたいようだった。まだ寝惚けているのもあるのだろう、普段より聞き分けの悪いスレイにあの頃の様な感覚を覚えるが、その隙を狙ってスレイがミクリオからアイスを奪い取った。
「へへん!オレの勝ち!」
一口分欠けたそれ。冷凍庫にまだあるのに人の食べ掛けを齧ろうとするので。
「――……」
アイスバーを持って片手を封じられた状態のスレイの肩を押して、ベッドに再び転がした。コロンと想像よりも簡単に転がった幼馴染の腰の上に乗って自重で動きを封じ、その手にあるアイスキャンデーを齧る。何が起きているか分かっていない様子のスレイを見下ろして、わざとゆっくりその顔へ自分の顔を近づけた。銀色の髪が肩から垂れてスレイの頬を擽る。
「……っ」
意図して触れた唇は昼間ぶつかった時と違って柔らかく、そして熱い。たったそれだけでもミクリオの腹の奥を熱くするには充分な感覚だった。びくと一瞬動揺するように揺れたスレイの肩を押さえたまま、口の中にあったアイスキャンデーの欠片を渡す。スレイの性格は十分理解しているので、一度も二度も一緒だと気にしないかもしれない。幼い頃から一口貰ったりあげたり、食事やおやつのシェアなんて日常茶飯事だったから。
「……僕から奪うアイスは美味しいかい、スレイ?」
「っ――!」
「君の分はちゃんと用意してる。次やったらキスだけ贈って……」
ワザと怒られることをしている自覚はあるだろうからとあの頃から変わらない説教じみた言葉を続けようとしたミクリオだったが、口元を手のひらで覆い隠したスレイに言葉を呑み込んだ。驚いた表情。
「ごめ……」
「やったな!」
ばふん!ベッドの上に寝転んでいたスレイがふかふかの毛布を手で踏んづけて勢いを付け、ミクリオの服を掴んで引っ張る。片手をアイスで塞がれたままの不安定な体勢。スレイの上に再び覆い被さることになったミクリオの広がる髪を掻き分けて頬に何かが軽く触れて離れていった。日差しを反射する小川の様な色の瞳が悪戯に歪む。
「へへっ、仕返し!」
「……っ」
触れた場所を押えて固まったミクリオを気にせずにベッドから降りたスレイが備え付けの冷蔵庫へ駆けていく。溶けて手に伝ったアイスの欠片を天響術で再び冷やし固めることすら忘れ、ミクリオは慌ててベッドに落ちないように舐めとる。仄かな優しい味。誰もが好きな味の筈なのに、今は。
「……あまいな……」
口の中に広がる甘さに、先程まで触れていたスレイの唇を思い出して顔を伏せる。驚いた様な緑色の瞳。悪戯に笑う表情。その唇が触れた頬。
――ああ、仕掛けたのは自分の筈だったのに!
<終>