『ハレルヤ』
ルズローシヴ=レレイ。 ——執行者ミクリオ。
メーヴィンによって明かされたカムランの過去と、それによって判明した己の出自は裏切りと憎悪に塗れていた。
そして幼い頃に疑問だったこの真名に込められた想いも、全くもってそれに相応しいとしか言いようのないものだったのだ。
別に出自なんて僕自身の人格や生き方には何の関係もない。本心からそう思う。そう思っているのに、このことは僕の心にどろりとした澱となって広がり、隅っこのほうでいつまでも恨めしげにこちらを見ている。今でも。
ピィだかキィだか判別のつかない声を上げて、先日この世界に生まれた小さな命が窓辺で親代わりの存在を存在を呼んでいる。
その声に反応して駆け寄っていったスレイが、ふわふわとした手のひらサイズのそれを抱き上げて笑った。
「可愛いなあ、お母さんを呼んでるのかなこれ」
優しい眼差しがイズチヒバリのヒナをやわらかく抱き締めるのを少し離れた場所から眺めていた僕にも笑顔を向けて、手の中のヒナをそっと撫でる。
その姿はとても眩しくて、僕と離れていた数百年でスレイはかみさまになってしまったんじゃないかと思った。
マオテラスと浄化の眠りについたスレイがこの世界に戻ってきてしばらく経つ。
あんなに長いこと眠っていた身体を心配するミクリオをよそにすぐにでも遺跡探検の旅に出掛けようとするスレイをなんとか宥めすかしてこのイズチに留めるのにも無理が出てきた頃、スレイの家の前にぽてりと転がっていたのがこのイズチヒバリのヒナだった。
休息という名の暇を持て余し気味だったスレイはそれでも「人間の匂いがつくと親のところに帰れなくなるから」と連れ帰るのを躊躇っていたものの、半日待っても親鳥が迎えに来ないのを見ていられなくなってしまったのか、結局こうやって出窓の前に余り布で小さな巣を作ってやって毎日甲斐甲斐しく世話を焼いている。
曰く、ここなら親鳥が見つけてくれるかもしれないから、と。
「そろそろ名前をつけてあげたらいいのに」
「えー? …うーん……」
あれ、と首を傾げる。スレイならこういうものには大喜びで名前をつけそうなものなのに。
「どうかした?」
「名前つけるとさあ、離れがたくなっちゃうだろ」
「…なるほど」
名前をつけると途端に愛着が湧いてしまってその後困るのは僕にも覚えがあった。
まだ僕らが小さかった頃、この杜にジイジがいた時代の話だ。
怪我をして群れから逸れていたウリボアをこっそりイズチの外れの洞窟でふたりで世話をしていた。
これがよく懐くものだからすっかり可愛くなってしまって名前までつけて毎日一緒に遊んでいたのだけれど、ある日の朝、会いに行ったら忽然と姿を消していたのだ。
きっと親が迎えに来て群れへと帰っていったのだろう。そう納得したものの友達がいなくなってしまったのはやっぱり寂しくて、獣の匂いの残る洞窟の中、ふたりで抱き合って泣いた思い出がある。
きっとそのことを言っているのだろうと思った。
「ジイジにバレたらまた叱られちゃうしな」
「それもそうだ」
そして、その話は続きがある。
目を真っ赤に泣き腫らして帰ったイズチの子を当然大人たちは心配して、そのことはすぐに長であるジイジにも伝わり。
涙ながらに事情を話すふたりにいつもよりも優しい声でバカモン、と言ったジイジは、その一生に責任を持つ覚悟もなく他の生き物に手を出してはいけないとどこか遠くを見る目で話してくれた。
——今思えば、あれは僕らを引き取ってくれたジイジ自身の覚悟の話でもあったのだろう。僕らは本当に良い親に拾われた。
それに、とスレイが呟く。
「名前は、本当に大事にしてくれる相手につけられる方がいいよ」
親とか。
自分の名前の意味を知らないスレイが笑った。
そうだねと返した僕は、上手に笑えたか分からなかった。
ふう、とため息をついた自分の声に意識を引き戻されてずっと本に落としていた視線を時計に移せば、時刻はすでに真夜中になっていた。
床にあぐらをかいていた身体が軋むのにぐぐ、と伸びをしながら確認した窓の向こうは真っ暗だ。
こんなに夜更かしをするのは久しぶりだと考えて、そのことにちょっとおかしくなる。天族に夜更かしも何もないだろうに。
本来なら食事も睡眠も必要のない天族のミクリオがそれをするのが当たり前だと思っているのは、完全にスレイの影響だ。
幼い頃から一緒に育ったスレイの人間としてのサイクルに合わせて生活していたせいで、朝に起き、夜に寝て、一日三度食事を取るのが習慣になってしまっていた。
遠い昔、旅を共にした地の天族には出会ったばかりの頃に「変なの」と散々馬鹿にされたものだ。
そう言っていた彼女自身もいつの間にやら食事の楽しさを覚え、起きていても仕方ないからと夜には眠るようになっていたのだけれど。
そんなことを思い出しながらパラパラと捲る本には古代語がびっしりと並んでいる。
今では大した苦もなく読み解くことが出来るようになったそれを指でなぞり、彼女の真名に該当する文字を選び取る。
ハクディム=ユーバ、早咲きのエドナ。
その名の通り彼女は長い時間をあの霊峰で過ごして幼い見た目のまま大きな力を得るまでになっていたし、他の仲間だってそうだ。清浄、約束、曇りなき眼。
旅の中で知った彼ら彼女らのそれは、なるほど確かに真名は天族の持って生まれた運命や本質を表しているのだろうと思わせるものばかりだった。そして、僕も。
先代導師ミケルの怒りを、憎しみを執行する者。そうあれと願って捧げられた命。それが僕の元になったものだ。
あの日からずっと消えないどろどろと同じ色をしたものから生まれてきた僕に相応しい名前。
「……ルズローシヴ=レレイ、」
「だめだろ!」
「ッ!!」
ひとりごとのそれに被せるようにかけられた声にびくりと肩を震わせて発信源であるドアの方を慌てて振り返ると、腰に手を当てた姿勢でスレイが立っていた。
もう一度だめだろ、と繰り返しながら家の中に遠慮なくお邪魔してくるスレイは僕の反応や勧めなど待たずに隣に座り込む。
「それは大事なものなんだから、あんまり口に出したらいけないって言われてるだろ」
腰を下ろしたスレイが口を尖らせて言うのにああ、だか、うん、だかもごもごと返しつつ一応敷き物を勧めておく。
突然現れたと思えば先程までミクリオが読んでいた本を横から奪ってペラペラと捲り始めたスレイをぽかんと眺めてしばらく、やっと動揺が落ち着いてきた頃にようやく絞り出したのは「なんでこんな時間に」という、今更もいいところな質問だった。
「昼間ミクリオが変な顔してたから気になってて、」
夜中に目が覚めて外覗いたらまだ明かりが点いてたから来ちゃった、と当たり前のように話すスレイになんだか泣きたい気持ちになって、ぐっと唇を噛んだ。
ぱちぱちと暖炉で火が弾ける音だけが響く室内で、僕もスレイも何も言わない。ただ隣に並んでぼんやりとそれを眺めていた。
何か言わないといけない気がするのに何も言葉が出てこないまま過ぎていく時間に身を任せていた僕の、投げ出されていた右手に触れるものがあって視線をやればそれはやっぱりスレイの左手で、そういえば昔はよくこうやって左手と右手を繋ぎあったなあと思った。
「…オレさ」
重ねられた手を合図にするように口を開いたスレイはこちらを見ないままぽつぽつと喋り始める。
「長いこと寝てた間にマオテラスとたくさん話して、この世界を心で感じて、気付いたんだ」
「うん」
「この世界ではみんなが誰かを大切に思ってて、それは人間も天族も一緒で、善も悪もなくて。 大切だって愛しいって気持ちからそこに命が新しく生まれて、また誰かの幸せを願うんだ。 そういうのをずっと感じてた」
「うん」
「命って本能とかそういうのじゃなくて、たぶん優しさから生まれてくるんだと思ったよ」
「……それは…どうだろう」
スレイが何を話そうとしてるのかなんとなく察してしまって、それが僕を思ってのことだと分かっていたけれどちょっと嫌だと思った。
それはきっとスレイがスレイだから、優しくて綺麗で真っ直ぐで、生きて欲しいという願いによって産まれた存在だからそう感じるのだ。
だって、そうじゃない命だってある。ここに。
「そんなのは綺麗事だ」
「綺麗事だよ。 …でもオレは本当にそう思うんだ」
肯定されると思っていなかったから驚いてしまって隣を見ると、スレイは昼間に小さな命を慈しんでいた時と同じ顔をしていた。
「これ」
伸びてきたスレイの右手が僕の額に、正確には前髪に隠されたサークレットに触れる。
「これは火傷からミクリオを守ってくれるものだろ」
スレイの瞳がちらちらと暖炉の火を反射して輝く。
「天族のお前がこれを持って生まれたのはちゃんと理由があるとオレは思う。 …綺麗事かもしれないけどね」
そう言うスレイの顔と、かつて瞳石で見た、母、とある意味では呼べるのであろう女性の顔がちっとも似ていないはずなのになぜかダブって、頭の奥であの優しげな声が名前を呼んだ気がした。
「オレは、ミクリオはあの人の生きて欲しいって祈りで生まれたんだと信じてるよ」
「…そうだろうか」
「そうだよ」
「この、『執行者』の名前をもって生まれてたのに?」
「ミクリオはオレとたくさんのことをしてきたじゃないか。 世界だって救ったんだぞ」
「世界を救ったのはきみだ、僕じゃない」
「強情だなあ」
さっさと言いくるめられちゃえばいいのに、とスレイが困ったように笑って、いつの間にか自分が泣いているのに気が付いた。
頬を伝う涙の火傷をしそうな熱さに、僕は自分の出自に傷付いていたんだとようやく思い出したのだった。
あの日だってきっと今と同じ気持ちだったんだと思う。
でもあの頃はいろんなことがそれどころではなくて、そんなことでスレイを悩ませたくない一心で誰にも何も言わなかった。
言わないままでいたらいつの間にかその思いは行き場を失くし、心の隅っこで膝を抱えて蹲ってしまって、僕はそれを煩わしいとしか感じなくなってしまって。
そして傷付いたあの日の僕は宙ぶらりんになってしまったのだ。
僕はジイジや、イズチのみんなに愛されて育ったと確かに思う。
けれど、あの日にそれまで知らなかった母の愛を知ってしまったらなんだか無性に悲しくなってしまったのだ。
こんなにこの人に愛されていたのに、今の天族としての僕は他人の憎しみによって命を受けて生きているという事実がたまらなく痛かった。
僕はイズチの子だ。ジイジの子だ。そう信じて生きてきたし、それが僕だと言い切れる。
ただ、知ってしまったことを、感情を、「今の僕とは関係ない」と簡単に割り切ってしまえるほど達観は出来なかった。
気付いてしまえばもう自分一人では抱えきれなくて、そんなようなことをスレイに話したけれどきっと上手くは伝えられなかったと思う。
でも、話の前後もめちゃくちゃに大きな身体を子供丸めてみたいに泣きながら喋る僕の話にスレイは最後まで耳を傾けてくれて、悲しかったな、話してくれてありがとう、と抱き締めてくれた。
「オレはミクリオのどっちの名前も好きだよ」
「…本当に? こんな名前でもかい?」
「どんな名前だからじゃない、ミクリオの名前だから好きなんだよ」
涙で歪む視界にうつるスレイは僕の知っている誰よりも優しい顔をしている。
またぶわりと溢れてきた涙を隠そうと、昔とは大きさの逆転してしまったスレイの肩に擦り寄れば背中に回されていた腕がぽすぽすと頭を撫でた。
「すっかり泣き虫だなあ」
「今日だけだよ」
「そういうことにしといてやるよ」
「そういうことじゃない、そうなんだ」
「ふふ、」
笑ったスレイが耳元に唇を寄せる気配がして、それに、と空気が震える。
「オレにとってはミクリオの真名は別の意味があるんだぞ」
「えっ?」
「内緒だけどな」
スレイは内緒という言葉通り何も教えてくれなかったけれど、どうしてかその答えはきっと彼と過ごした日々の中にあって、そしてとても優しいものなんじゃないかと思った。
そうやって彼にの腕に抱かれながら泣き疲れてうとうとし始めた頃、いつもと違って見下ろされる位置にある自信のつむじに何かあたたかくてやわらかいものが触れる感触と一緒に「おやすみ、ミクリオ」と世界でいちばん好きな声が囁くのを夢ううつに聞いた。
———ああ、これが。これが優しさから生まれる音だ。
ピピ、という高い音が聴こえた気がして重たい瞼を押し上げれば、いつの間にかスレイが連れ込んでいたのだろうヒナが窓際でガラスに向かって鳴いていた。
その窓の向こうに見えた姿に、昨日のまま床で眠ってしまったらしく隣ですやすやと寝息を立てるスレイを慌てて揺り起こす。
「スレイ、…スレイ!」
「んぇ………なに…まだ寝かせて……」
「親鳥が迎えに来てる、スレイ、」
「んーーーー?」
文字通り嫌々という風にたっぷり時間をかけて起き上がったスレイはしばらく眉間に皺を寄せたままミクリオが指差す窓際を見つめ、あっ!と叫んで立ち上がる。
慌てすぎたのかひっかけた僕の足に転びそうになりながら駆け寄っていって窓を開け放つと、待っていましたとばかりに外を飛んでいた大人のイズチヒバリがすいと降り立って、ヒナの頬に口付けるように嘴を寄せた。
そしてヒナの方も応えるようにチチチと小さいけれど確かな声で再会の喜びを歌う。
「よかった…」
まるで自分のことのように目を細めるスレイのその横顔がやっぱりかみさまみたいだと思って、しかしその口元によだれの跡を見つけてしまい考え直す。カッコ悪い、けど。
やっぱりスレイは僕の知っているスレイのままだ。かみさまなんかじゃない、と安心した。
スレイがかみさまならずっと一緒にいられるかもしれない。
でもそれじゃダメなのだ。
僕がずっと共にありたいと願ってるのは、好きで好きでたまらないのは、どうしたってこの人間という儚い生き物のスレイなのだから。
そんなスレイとずっと、信頼する相手を呼ぶヒナのように、呼びかけに応える者のように、あるいは愛していると囁き合うように。
そうやって互いをの愛おしい名を呼び合って生きていきたいと幼い頃からずっと思っていたのだから。
こんな当たり前のことに気付いてしまえば、僕がうじうじ悩んでいたことなんてなんだかとてもくだらない、取るに足らないことに思えてきてしまって、そんな自分がおかしかった。
名前の意味なんて真相の分からないものよりも大切なことがあったのに、どうしてこんな単純なことに気付かなかったんだろう。
僕にとって大切なのは意味じゃない。誰がどんな想いを込めて呼んでくれるかだ。
例えばそう、愛とか、優しさとか。そういうまあるい気持ち。
そうしてくれる相手がこんなに近くにずっと居てくれる。それだけでもう全部じゅうぶんだった。
「ふふ、」
「? なんだよ」
「いや、僕にも分かったよ」
「何が?」
不思議そうに首を傾げるスレイの片っぽうによだれの跡の残る頬を両手でゆるく挟んで微笑みかける。
「スレイの名前の意味。僕しか知らない、僕だけの意味」
ぽかんとするスレイについさっきイズチヒバリの親子がやっていたように、けれどこちらは頬ではなく半開きのその唇に僕の唇を寄せた。
んん、と驚いて声にならない声を上げるスレイの身体を頬から離した両手でしっかりと抱き締めたら、おずおずと抱きしめ返してくれる。
それが嬉しくてぎゅうぎゅうやっている内に苦しくなったのか唇は逃げて行ってしまった。
ちょっとだけ寂しい気がしたけれど、目の前のスレイが笑っているだけでこの寂しさだって愛おしいと思えてしまう僕の気持ちがさっきのキスから伝わっていればいいな、なんて。
「なんだよ突然!」
「なんでもないよ。 でもスレイが好きだよ」
「急すぎて意味わかんないんだけど。 …でもオレも好き」
「それは良かった」
相変わらずがっちりとスレイを閉じ込める僕の腕にされるがままになっているスレイが照れ臭そうに笑って、それで僕の世界は幸せで満たされてしまった。
「それで、オレの名前の意味って?」
そういえば、と思い出したように言うスレイに今度は思いっきり口角を上げた、けれどちょっと意地悪な笑みで応える。
「…内緒だよ」
「はーー???」
「でも、きみが正しかった」
「…ほんとに分かんない、なんの話?」
「全部さ」
本当に本当に大好きだよ、という想いを込めて、もう一度スレイ、と彼の名前を呼んだ僕の声は、今までその言葉を紡いだどれよりも優しいものだったに違いない。
よく分からないけどまあいいよ、と声を上げて笑うスレイに釣られるようにチチ、と窓際で小さな親子が幸せそうに鳴いた。
隅っこで恨めしげにしていたあの日の僕は、もう何でもない顔で笑っている。
僕という天族が生まれたのは誰のどんな想いからかは分からない。
分からないけれど、少なくとも今この場にいる僕はきっとジイジやイズチのみんなの愛情や、スレイの存在や、スレイを愛おしいと思うこの気持ちから生まれたのだと思う。
そしてそれはスレイも同じだ。
僕やジイジ達、そして顔もよく知らない彼女の愛によってこの世に齎され、育まれた命なのだから。
命はきっと優しさから生まれる。
その言葉通りに僕もきみも、確かに優しさから生まれてきていた。
<終>