がさり、と下草を踏んだにしては大きな音が耳に届き、反射の速度で身を屈める。
咄嗟の判断は正しかったようで、頭上で空気が切られて僅かな風を感じた。
鍛練の場として選んだ自然が作り出した広場は、落ち葉と枯草で覆われ、倒れこんだとしても衝撃は少ない。
その分、層になった葉を踏みしめた時の音は大きく響いて、二人の息遣いに混ざってリズムよく鳴った。
小さな頃、そのあたりで拾った棒を掴んで遊戯のごとく始めた鍛練は、互いの成長と共に特質の差を明らかにしながらも続いている。
天響術を操る術を覚えたミクリオは水の力を味方にしながらそれを磨き、儀礼剣という武器を選んだスレイは体術に特化していった。
「炎よ踊れ!」
高速の一撃は避けたもののスレイの攻撃は止まらない。
続けざまに繰り出された剣は、言葉の通り熱気を纏って突き出された。
回転斬りの要領で叩きつけられたそれを後方に跳んで躱すと、振り被った勢いの影響を受けたスレイが蹈鞴を踏むのが見えた。
「双流放て! ツインフロウ!」
隙を逃さず組み立てた水の霊力が水流となって前方に飛んでいく。
スレイが振るった剣から放たれた熱気が一瞬で冷やされて辺りに薄靄を生んだ。
互いに手加減はしていない。
殺意を込めこそしないものの、中途半端な手抜きはこの場において邪魔なだけだった。
こうしてぶつかり合うことで、それぞれの間合いや特徴を確認し、日々の戦闘に役立てることができる。
スレイが先程繰り出した奥義は、術攻撃を多用する相手に選んで使用していたもの。
奥義に対して天響術をぶつけたミクリオも、優位に立とうとしての行動だ。
学んだ技術や知識は反復してこそ身についていく。
また、あまり使用頻度が低い術技もどれだけの隙を生むのか、攻撃範囲はいかほどかを確かめる意図を持って、鍛錬の場で使用することもあった。
「無へと帰すべし――」
だから、この時ミクリオがそれを唱えたことも、それほどおかしなことではなかった。
その詠唱を離れた距離から聞いたスレイも大きな疑問には思わなかった。
どちらかというと、詠唱を邪魔できるほど接近していなかったので、それを受けることになるだろうと頭の片隅で捉えたくらいだ。
「知を解くべし――!」
術者であるミクリオ自身も、その後に起こる事態について欠片も想定していなかった。
むしろスレイに対してはあまり効果がないだろうと思いつつも、練習のつもりでその天響術を作動させたのだ。
ミクリオの周りに漂っていた霊力が、術の発動と共に攻撃対象であったスレイの周囲に集う。
そのまま一拍の間を置いた後に炸裂した光は、彼の体躯を突風のごとくなぎ倒し、枯草の折れる音を盛大に響かせた。
衝撃が去ってすぐにスレイが起き上がって反撃に転じるだろうと予測したミクリオは、その前にとさらに詠唱を続ける。
離れた位置から駆け寄ってくるまでの時間と、起き上がるまでにかかる時間。
それらを合わせればぎりぎり行使できそうだと踏んで、目を閉じて精神を集中させた。
「灼熱の赤、極寒の青――」
ふとミクリオが違和感を感じたのは、周りがあまりに静かだったからだ。
忍び足で動こうにもそれを許さないほど敷き詰められた枯葉達。
今日これまでさんざん耳にしてきた音を、駆け寄ってきているはずのスレイが鳴らしていない。
霊力の行方に凝らしていた精神を耳に集中させる。
この時点で、反撃を受けるかもしれないと思ったものの、それをせずにはいられなかった。
そして、やはり聞こえない足音と、試算した時間が過ぎたものの訪れない衝撃を訝しみ、詠唱を中断して目を開いた。
「スレイ?」
ミクリオの想定が正しければすぐそばまで来ているはずの彼は、マインドスレイブを受けて倒れ伏したまま、そこから微動だにしていなかった。
ザクザクとした落ち葉の音がうるさいと、頭の隅で考えながら駆け寄ったミクリオは、その短い距離で色々なことを想像した。
僅かな時間で膨れ上がった不安を抱えたまま覗き込むと、大半の脳内に浮かんだ考えに反して、スレイは目を開いていた。
どこかぼんやりしたような顔つきではあるけれど、そこに大きな問題は生じていないようでミクリオは安堵の息を吐く。
もし、ここでスレイの瞳の色が確認できなかったら、きっと彼の名前を大声で呼びながら取り乱していただろう。
そんな数瞬前に抱いた恐怖の空気を振り落として、悪い想像の中よりも随分と音量の小さな声で呼びかける。
「っ……スレイ、大丈夫か?」
思いの外息が乱れたのは、それまでの訓練と先程の駆け足のせいだ。
気持ち虚ろに見えたスレイの視線がゆっくりと焦点を合わせ、ミクリオを安心させるかのように口元を微笑みに形作った。
「スレイ?」
言葉で返らない返答を求めたミクリオにむかって、徐に両手が伸ばされる。
仰向けになった体制のまま伸ばされた腕に、起こしてくれとの意図を読み取ったミクリオは、甘えん坊な幼馴染に嘆息した。
「まったく、君は……――っ!?」
掴んだ腕を何故か強く引き寄せられて、軽口も途中に倒れこんだミクリオは、何とか腕をついて彼を潰すことだけは防いだ。
「何をっ……」
続けようとした言葉がまたしても途中で途切れたのは、スレイの腕が頭の後ろに回ってミクリオをさらに強く抱き寄せたからだった。
「んー、ふふっ」
言葉というには未熟な音を鼻の奥で響かせたスレイは、引き寄せたミクリオの頭をしっかりと抱えて、頬を押し当ててくる。
筋肉の付いた肉体とのギャップを嫌でも感じさせるほど柔らかい肌が、頬骨の辺りに擦りつけられ、状況が読めないままにミクリオはもがいた。
「スレイっ!? ちょっ――、本当に、どうし――」
惑いの色が濃い言葉は、遮られて飲み込まれる。
濡れそぼった感触と、伏せられた瞼が視界に広がって、ミクリオは遅れて事態を認識した。
――スレイにキスされている。
それ自体は驚愕するほどのことではない。
唇を求め、互いの熱を分かち合う行為を二人が覚えて久しい。
けれど、状況は明らかに異常だった。
ふにふにと啄むように動くスレイの口は、それまでの熱気を忘れて、この時しか味わえないものに集中しようとしている。
ミクリオの理性を奪おうとする口づけから、何とか逃れようと体を引き離そうとするが、それを許さないとスレイの腕が抱き寄せる力を強める。
単純な腕力勝負になってしまえばミクリオには不利である上に、久しぶりのキスに惹かれる気持ちも抵抗を削いでいく。
ガサガサと耳障りな音が身を捩る度に耳に届き、ここが野外であるとミクリオに伝えてくる。
その音で力を奪われるのは、通常ならスレイのほうだったはずだ。
誰かに目撃される羞恥はスレイの思い切りを鈍らせる。だからこそ久しぶりの行為なのだ。
野営地からここまでの距離はそう遠くはない。
皆の休息を邪魔しないようにと、声が響くほど近くはないし、姿を目視されるくらい拓けてはいないけれど、だからといって人目を避ける意図は加えていないのだ。
くちゅ、と音を立てて、スレイが吸い付く。
同じものを返してほしいと、触れ合ったそこが訴えてくるような気がした。
誰かが様子を見に来るかもしれない。
二人の関係性について詳しく公表していたわけではないから、驚かれるかも。
スレイの上に覆いかぶさっている現状を見られたら、合意ではないと誤解されるかも。
ミクリオの中で、幾つかの“もしも”が浮かんでいく。
その全ての泡を見ない振りして、求める唇に応えると、それらが弾けて消える音が聞こえた気がした。
柔い感触のそこは、触れ合うことを望むと同時に弾力を前面に押し出してくる。
先ほどまでの手合わせと同様に、互いに手加減などしてはいない。
ミクリオが下唇の甘さを堪能しようと啄むと、スレイは僅かに開いた唇の隙間から濡れた音をさせながら吸い付く。
ちゅく、と鳴った水音に誘われるように、ミクリオの舌がスレイの口を糊付けるように辿ると、それまでずっと抑えるように回っていた腕の力が緩んだ。
それがもう少しだけ早いタイミングだったら、ミクリオもそのままゆっくりと体を起こして、彼の名前を呼んでいただろう。
天響術を受けたスレイの様子を改めて確認し、不調が起こっていないかを聞いて、この一連の流れについて照れと戸惑いと喜びを混ぜ込んだ上での苦言を一言。
けれど、ミクリオの腕はスレイの頭の後ろに回り、開いた距離を再び縮めることを選んだ。
まだ何も知らなかった時分から抜き出てきたようなスレイは、ただミクリオの動きを待っていた。
先程から一言も言葉を発しないスレイは、まともに受けた天響術の効果がでているのだろう。
無垢な子供にいけないことを教えてしまう悪い男になったようなシチュエーションは、ミクリオの脳内も鈍らせてくる。
倒錯的な状況に酔い始めている。
「スレイ、……嫌なら、抵抗、するんだよ」
触れては離れ、また重ねる、繰り返すキスの合間に、形だけの言葉を零す。
言葉の内容を理解したのか、それとも呼ばれたことだけはわかったのか、にこにこと笑みを湛えているスレイに大丈夫かと懸念を抱くが、ミクリオも止まらなかった。
何せ、久しぶりなのだ。
思い返せば、前に宿に泊まった時も全員一部屋だったから、結局触れ合う機会はなかった。
それほど導師としての道に忙殺されているのかと思うと、息抜きもさせてやりたい。
「ん、んぅ――」
相変わらず言葉にならない音を発したスレイは、へにゃりと下げた眉でかわりに感情を表している。
耳の裏を指で辿り、耳飾りを戯れに揺らすと、彼はきゅっと目を閉じて首を振った。
「スレイ……」
閉ざされた瞼の上、いつもなら翡翠の瞳が煌めく場所に唇を落とし、次いで先ほど触れたばかりの耳元にもキスを降らせる。
キスを重ねる度に、積もり積もったものが解けていく予感があった。
過ごす日々の中で凝り固まったそれが、緩やかな熱と、擽る水音と、溶ける境界の狭間で薄れていく。
満たされていく自分を感じたミクリオは、スレイにも同じものを得てほしいと緩む思考の中で願った。
同時にその願いは問題なく叶うものだという確信もあった。
幼いころから共にあり続けたミクリオからすれば、それは揺るがない約定だ。
問題があるとすれば、流されるようにはじめてしまったことで、周りへの配慮が欠けていることか。
もともと二人で組手をすると言って出てきた手前、あまりにも時間がかかれば誰かが様子を見に来ることは予想できる。
クールダウンも踏まえて、ある程度の時間で野営地まで戻らなければいけない。
惜しい気持ちは捨てきれないものの心を決め、スレイの顔を覗き込んでみると、まだミクリオから与えられた波に飲まれているのか翡翠は虚ろな色をしていた。
「スレイ」
ミクリオが口にした唯一の相手の名は、彼の眼に光を灯させ、その焦点を絞らせていく。
唇の隙間を緩め、時折瞬きをするものの薄弱な表情は、視点だけがミクリオに辿りついたように見えた。
この場に観客がいたなら、呆けた彼を導師だとは認めないだろう。そんな顔だった。
術の効果か、別の理由か、意識が飛んでいるようなスレイに笑いかける。
彼もまた無垢を纏って笑みを返す。
子供のようなその顔は、イズチで二人駆けた思い出の中から現れたような色合いをしている。
それが何を意味するのか、世界でただ一人、ミクリオだけは正確に理解できる。
無垢で無知。ただ、自分にとっての唯一を求める純粋さ。
イズチで育った子供から導師となったスレイは、それまでのように手を伸ばすことが難しくなった。
ミクリオにとって見慣れた藍色を純白で隠して以来、久しく見ない表情だ。
彼が天響術によって状態異常になっているという免罪符を得て、その効果が切れた後でもそこに縋ろうとしている、と、読めないわけがない。
野外であることに目を瞑り、煽られる羞恥心も無垢な演技の裏に隠して、感情に手を取られたスレイはどうしようもないほどに人間的だった。
それでも共に目を逸らそうとしたのだから、ミクリオも同罪と言っていいだろう。
ミクリオが気付いたことをスレイが知れば、きっと終わってしまう。
この時間を少しでも長く。
笑みの裏に潜む彼に食い込むように。
噛みつくように被せた唇は、ぴたりと隙間なく重なった。
<終>